集英社・週刊少年ジャンプでデビュー以来、マガジン、サンデーと活躍の場を拡げて来た武論尊(史村翔)先生ですが、1980年には講談社の新雑誌の創刊に関わることになりました。青年漫画誌である「ヤングマガジン」(隔週刊)です。
史村翔先生にとってヤンマガは、初めて挑戦した青年誌であると同時に、数々の愛着のある名作を生み出した特別な場所でもあります。今回は、思い入れの多い「ヤングマガジン」時代のお話をお聞きいたしました。


(取材日/2003.11.13 写真/帝国ホテルにて)

●新雑誌「ヤングマガジン」で書き始めたきっかけは?

ヤングマガジンが創刊のときに、デモ版っていうか、
先行して別冊みたいなのを出したの。
そのときに読み切りを書いてくれって、
多分、最初の編集長が他の編集と来て…、それで。

それまで俺、コメディー書いたことなかったと思う。
本格的なコメディーは、多分…。
それでコメディー書きたいって言ったら、
ああ、いいですよって言うんで、
で、とりあえず、女子高生好きだから…、
女子高の先生って、あこがれの職業だったからさ、
女子高の先生でやるって言ったら、もうそれでOKで。

それで多分人気がなかったら、本編っていうか、
連載のメはなかったんだろうけど、
1回目でそこそこよかったんじゃないかな。
それでヤンマガが創刊したときに続けたって感じじゃなかったかな。

作家は小野新二さん。
連載(『OH!タカラヅカ』)は主人公が高校の教師だったんだけど、
その読み切りは、なんで高校の教師になったのかっていう話を
書いたんじゃなかったかな、確か…。


【編集メモ】

*『OH!タカラヅカ』1980(S55)年創刊号〜1983(S58)年6号 講談社 ヤングマガジン 漫画/小野新二
  女子高生に囲まれたバラ色の人生のはずなのに、
 早漏ゆえの悲しみを抱えながら生きる女子高教師のお色気コメディー。


●少年マガジンでの野球漫画から比べると大胆な路線変更ですね(第5回目参照)

最初は、漫画家の小野君指定だったから…、
小野君の絵の柄から考えるとどうしたって、
ハードよりもソフトだろうってことになったし、
彼が描く女の子かわいいし…、
じゃあ、女子高生と先生のエッチコメディーで行こうかって…。

それまで講談社って、少年誌しかなかったでしょ。
やっぱり青年誌だったから、
けっこう思い切って楽しめるかなってのがあったからね。
多分、初めてやる青年誌だったんじゃない、俺。

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