●小学館で『ファントム無頼』を始めたきっかけは?


【編集メモ】

*『ファントム無頼』 1978(S53)年4月号〜1984(S59)年2月号 小学館 増刊少年サンデー 漫画/新谷かおる  航空自衛隊百里基地に所属する、野生児パイロット神田とコンピュータ・ナビゲーター栗田、
 彼らが命を預ける愛機F-4ファントム680号を描いた戦闘機漫画。


これは月一だった。増刊。
すごいメンバーがいたんだよ、この本は。
小学館でやるきっかけっていうのは、みんなが集まる飲み屋があるわけ。
あるとき、そこで飲んでいると小学館の編集の人が来て、
いきなり、
お前が武論尊か。
はい。
じゃあ、今度何かあったら話行くからよって言って、
しばらくしたら電話がかかってきて、
とりあえず出て来いと。合わせたい奴がいると(笑)。
で、行ったら、そこに新谷君がいたの。
これが新谷かおるって言って、
こいつなー、メカ描けるけど、人間描けないんだ。
お前、自衛隊いたよな、何か描けないか、戦闘機でって言うからさ。
いいけど…、新谷君、そんなこと言われていいのって言ったら、
新谷君が、いいですよって言って(笑)。
それでなんか話してて、
戦闘機っていったらファントム好きなんですよって、俺が言って、
それで、じゃあやってみようって『ファントム無頼』が出たの。

だから、その編集がいきなりセッテイングしてくれて…。
飲み屋の席で俺を見てて、その後呼び出されてって…。

新谷君は、そのとき俺より2つか3つ下かな。
作家としてはけっこう固定ファンいたんだよ。
今でも20万くらいの固定ファンいるんだよ。
同人誌から出てるから、多分、関西の。
アマチュアっていうか、そっちでは有名な作家だったの。
全部メカ物で固定ファンいたのよ。
でも、メジャー誌じゃないのよ、確か。
〈このへん間違ってたらごめんね〉
もともとは少女漫画の出身。

それで多分小学館のその編集が新谷君に目を付けたんだと思う。
新谷君がメカ描けるからって、面白いって。
それで俺とセッテイングっていうか、マッチングしたんだと思う。

これは、多分新谷君にとっても俺にとっても、
ある意味ではターニング・ポイントになってるよね。
小学館に対してはね。

だから、小学館だからって意識して書いた作品ではまったくない。
これは本当に楽しい仕事だったよ、
メカ本当にうまいし、コメディーセンスあるし、
俺がどんなにハードなもの書いても、
新谷君はきれいに落としたり、上げたりって…、
これはすっごい売れたんだよ。
あまり目立たないけど…、かなりのヒット作になったの。

このときの雑誌のメンバーがすごいのよ。
あだち充の『ナイン』、六田登の『どうせ瞳くん!』、これ名作だよ。
それから細野不二彦の『さすがの猿飛』。忍者漫画のすっごいかわいいの。

こんなこと言っていいのかわからないけど、
本誌より絶対面白いって言われた増刊なの。
そっから全員が出て、全員がメジャーに化けたの。
すっごい本だったの。
まあ、その編集者のマガジンって言われるくらいの感じだったけど…。
みんな同じこと言われてるの。
おーい、おめえよ、俺のトコで描かせてやっからよーって(笑)。
楽しい時代。増刊サンデーのころは…、
みんな同時代っていうか、俺よりみんなちょっと下なんだけどね。

才能ある作家たちが全部集まって、全部しのぎを削って…、
本当に才能のぶつかり合いで、毎号毎号本当に楽しかった。
他の人の漫画も本当に面白かったからね。
みんな、さあこれからっていう若い才能がキラキラキラキラしてたからね。
うん、すっごいいい本だったよ。
今でも復刻版出せっていうくらい面白い本だよ。

このころはね、月10何本やってたんじゃない。
すっごい書いた時期あるの。それで体壊して辞めたんだから(笑)。

●1978年は初めて3社制覇してるんですよね


【編集メモ】

* 集英社 週刊少年ジャンプ『ドーベルマン刑事』
* 講談社 週刊少年マガジン『大器のマウンド』
* 小学館 増刊少年サンデー『ファントム無頼』

そのあと、何年かしてやっぱり3誌全部やってて、
3誌の巻頭カラーを全部やったろうっていうようなときあったけど、
でも…、そんなに甘くはないよね。

その最初のとき(3社制覇)は、やっとここまで来たかな
っていう思いはあるよね。
ただ、まだそのときには講談社ではヒット飛んでないのよ。
これっていうのはね。
一応、小学館と集英社では名前と作品残ったでしょ。
あとは…、どうしても講談社では今イチだったね。
ヤングマガジンが出るまで講談社ではちょっと苦戦してたんじゃない。


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