【質問と解答】

Q:このHPはとても自分にはためになり、いつも興味深く拝見させていただいております。私は漫画原作志望なのですが、そこで原作者に関してお聞きしたいことがありますので、ご回答を頂ければと思います。

 1)編集者から見て漫画原作者とはどのようなものなのでしょうか。昔、インタビューで有名な週刊少年誌の元編集長は「原作はたたき台」とおっしゃり、ある原作者の方は「原作者は必要悪」とおっしゃられています。現役の編集者から見てもやはりそういうものなのでしょうか?

 2)現在原作を募集している賞をみていると新たにネーム部門を設けているところが多くなっているような気がします。やはり、編集者からみて原作は文章よりネームの方がいいのでしょうか。また、将来的には原作はネームが主流になっていくのでしょうか。

3)今、私は某雑誌で原作の賞を受賞し、担当がついてみてもらっているのですが、先がなかなか見えません。原作者になる道筋というのが分からず、 この先の方向を担当の人に伺っても言葉が詰まってしまいます。実際に活躍 されている原作者をみると、元シナリオライター、元漫画家、元小説家、または漫画家の身内や編集者とのパイプを持っている方がほとんどのような気がします。新人の原作者とは編集者から見て育てにくいものなのでしょうか。


A:1)ドラマの脚本もマンガの原作も、発表形態としてドラマやマンガが最終形である以上、独立した「作品」ではなく「作品」完成へ至る一過程とみる ことができます。そして、「過程」ですから、文字原作からマンガへと形態を変えるなかで、設定やキャラクター、エピソード、セリフ、演出など様々な要素を削ったり加えたり改変したりすることがあります。そういった意味 で、「原作はたたき台」と言えるでしょう。また、創作というのはその過程で関わる人間が増えるほど、オリジナルから変質していく宿命を負っています(伝言ゲームを思い浮かべてください)。変質がすべてマイナスに働くわけではなく、プラスに働くこともあるわけですが、創作物におけるアイデンティティーを保つためには一個人ですべてを作り上げることがベストです。 ただ、現実問題として一個人で作品を一から十まで作り上げることは、非常に困難です。マンガという商業ベースにのりながら多方面の資質を要求する媒体において、作品の質と制作スピードを保つためには、才能の分担が必要不可欠になってきます。「原作者は必要悪」という言葉は響きはあまりよくありませんが、原作と作画という形の才能と作業の分担は、マンガ創作において必然的な流れであることはうなずけます。しかし、異なる才能のぶつかり合いによって、新たな創作の可能性が生まれる側面もまた見逃せません。 原作者とマンガ家との関係は、一概にこうあるべきと規定されるものではなく、個々の資質と力量、要求される舞台によって異なるものだと考えます。

 2)ネーム部門というのはおそらく、絵コンテは上手いが絵は下手な方の才能を生かすために設けられたのだと思います。私もマンガの新人賞の選考に20年近く携わってきましたが、ストーリーも台詞もコマ割りも見事なのに、絵がどうしても上達しない新人さんを数多く見てきました。実際に、そのような方と、 絵は魅力的なのに絵コンテを切る力がない新人さんとコンビを組ませて手っ取り早く連載させる場合もあります。しかし、自分自身の絵コンテのスタイルを持っているマンガ家さん相手だと、ネーム原作は鬱陶しがられることもあります。ネーム原作のコマ割りに縛られて自分自身の持ち味を見失ったり、逆にネーム原作のコマ割りを無視して大きく変えることで原作者との確執が起こるおそれがあるからです。ですから、ネーム原作と文 字原作(脚本)は、どちらが主流になるということもなく並行して存続していくのではないでしょうか。

3)新人原作者起用への道筋が見えにくいのは、現場の編集者が原作者を育成するノウハウを持っていないということもありますが、一から育成しなければならない原作者など不要という考え方があるのも大きな理由ではないでしょうか。ストーリー作りのレベルの差があまりなければ、稚拙な原作者を使い物になるように育てるより、新人マンガ家をストーリーが作れるように 育てるほうに労力を割きます。特殊な知識や取材力がある原作者志望の方なら別ですが、同じ育成するならマンガ家のほうを育成することに力を注ぐのは当然ではないでしょうか。ご質問で言うと、パイプのあるなしではなく、 ストーリー作りのノウハウをあらかじめ持っているか否かということで、そのような経歴の方が多いのです。


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